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エロやグロ、ホラー、性的表現、暴力表現などなど年齢制限R-18について考える。 2012年10月13日 考えてみて トラックバック:0コメント:4

 R-18、それはつまり18歳以下の子は見てはいけません、入ってはいけませんよというお札。これには少しばかりひっかかるのですよね。なにがひっかかるかというと、何故入っては、見てはいけないのかという疑問があるからひっかかる訳で、つまり全てにおいてひっかかってます。
 ここら辺まで読んだ頃には当たり前だとか考えて、この記事を読むのをやめてコメント欄に文句をつけるか、逃げるかする人が多いと思います。大抵の人は疑問に感じていないのですよね。疑問に思っても良いことだと思うのですが。
 R-18と言っても種類がありますね。グロ、エロ、ホラー。特に疑問に思うのがグロとエロの部分。まずグロから。
 グロとは何でしょう。それは流血表現や暴力等。それが犯罪を引き起こすと考えられていて、R-18規制されています。ひどいとゲームなどが発売禁止処分になったり。ここで疑問に思うのです。はたしてグロは本当に犯罪を引き起こすでしょうか。
 僕は暴力表現を見ると嫌悪感と凄まじい怒りを感じます。暴力自体が非常に嫌いなんです。戦場のメリークリスマスが経過10分くらいから見れなくなるほどです。それは親から受けた教え故かは分かりませんが。それでもこう考えます。
 暴力表現を見た子供が真似をして、暴行犯罪を引き起こす。それは根本的なところで間違っているように感じます。暴力表現を見た子供が真似をする、そんな子供はそもそも犯罪者予備軍ではないのか。極端に言えば、暴力に対して嫌悪感を感じないところで犯罪者予備軍だともいえます。
 基本的に、人は生まれてからすぐの時期は全員犯罪者予備軍だと僕は思ってます。何が悪いことか良いことかが分からないからなんですが、最近の人は、そういう時期が長引いてる気がするんですよね。暴力がいかに悪いことかを学校で教えていないからでは無いでしょうか。
 そして暴力表現規制のため、様々な問題があります。例えば情報。戦争はどのようなものかを正確につたえているジャーナリストの山本さんが亡くなりました。ニュースでは流せないような映像もあったそうですが、流すべきじゃないでしょうか。そこにある暴力や死を映さずして、戦争のひどさを伝えることは出来ないと思います。映像を見た子供がトラウマになるだとかの反論は、ただの言い逃れでしかないでしょう。現に戦争の中で生きる子供たちがいるのに、トラウマも何もあったものじゃありません。それは平和ボケの過保護です。「子供の家畜化」の末路といった感じ。
 暴力がいかに悪いことか、それを伝えることが犯罪を減らす鍵でしょう。暴力は悪いことであると。暴力で悦に入る人間は精神的に社会不適合なのでどっかの施設にぶち込むべきです。とまあ過激な冗談を飛ばして次の話へ。
 次はエロについて。これは明らかにおかしいです。
 性行為を見せるのが何が悪いのでしょうか?交尾です。あんなの、ただの交尾ですよ。本当にそう思います。昆虫の交尾は堂々と教育番組に出すくせに、人間のとなればいきなり命の重さと同じくらいに扱いが変わります。
 上記のように言い切った理由を、まず規制のあいまいな部分から突いていくことから始めます。例えば中世ヨーロッパの裸婦画のような、美術に興味の無い人間が見て、芸術品だと考える絵だと、割と規制が緩るかったりします。まあ、性器が出ているのがアウトという謎ルールがあるから、という言い訳が返って来ると思います。では僕はこう考えます。それこそが、性表現を規制する理由が破綻している証拠だ、と。
 理由と考えて浮かぶのは、性的興奮が危ういと考える場合。しかし、それならば女性性器のみならず、女性の肌を隠すようでなくてはなりません。男が女の裸を見て性的興奮に至るのは、生物学的に言って至極当然のことでしょう。男性は露出が高ければ十分ヒートアップする原因となります。故に、仮に性的興奮が危険視されて規制されていると仮定したら、R-18規制の基準は大いに間違っていると考えられます。
 ここまで読んで気づいた方もいるかもしれません。そう、規制の理由、基準を疑問視すればするほど、非常におかしい事だと思えてくるのです。つまり、あいまいな理由が規制の動機となっているとも取れます。「なんとなく」「恥ずかしいから」が「根本的」な理由なのです。まあ、大人が子供に見せたくないから、が本音だと思いますけど。しかし、それでは本当にばかげた話になってしまうのですよね。なぜなら、それが理由なら(よく言われますが)大人の都合なのであって、子供のための法律ではないという本末転倒なんじゃないのか、と。
 しかし、こんな事件があったからだとも、考えられます。例えば、AVを見た小学生が同級生をレイプした事件なんてのが頭の隅に残ってます。まあ、それは小学生低学年の頃に見てすぐ行動に移したパターンであり、年を重ねれば、道徳観も出てきて、理性が行為を止めるはずです。しかしながら裏を返せば、大人になってもそれが引き金になるのであれば、その大人は大人であるにもかかわらず小学生低学年レベルという非常に危険な人物故、冗談抜きでどっかの施設にぶち込むべきでしょうね。生まれてから小学生低学年の精神は善悪の判断が付かない非常に危険な時期でもあります。その時期の精神を引きずるということは、もはや人間としては最悪の出来でしょう。
 では、なぜその「危険な年齢の子供」に見せても構わないと言えるか。そういう時期に親や教師が見守って、転んだ子を立て直すことができるからですね。中学生になってしまうと子供は途端に微妙な賢さと羞恥心を持ちます。親が立ち上がらせようとしても、どこで転んだかが分かりにくく、教育にも曇りが見えてしまうのです。そうした子供はそのままの精神で大人になってしまい、性犯罪を起こしやすいと考えられます。
 疑問や素直さがある年齢のうちから、性行為や暴力表現を見せて、その反応に親が臨機応変に対応することこそ、よりよい人間に育つと確信します。なぜなら(何度も繰り返してますが)、それらの行為について、曲がった考えを持たせないように、そこで修正が簡単にできるからです。鉄は熱いうちに打てと言われますが、この問題も当てはまるでしょう。
 
 現実的に、細かい年齢で考えるのであれば、教育の時期は小学3年までに。それまでも、暴力表現や暴力的性行為に嫌悪感を抱かせる作風の作品を読ませることをおすすめします。それは子供にとって刺激の良い教科書になるからです。

 最後に僕がこの記事を書いた理由。最近の中学生や高校生は善悪の判断が鈍りすぎているからです。
 親が規制する理由は「子供にそんな汚いものを見せたくない」ですね。しかし、それは親の慢心と過信の表れと取れるんです。その理由の裏には「子供がこんな汚いことをするわけない」という気持ちがあるので。
 例えば、イジメや暴力が悪いことだと分からせるためには、イジメや暴力の醜い部分を見せ付ける必要があると思います。
 規制といって全て守りきれません。友達と一緒に何をしているか親は把握できないでしょう。事が起こる前に、親の前で子供に善悪のラインをはっきりとつけさせるべきなんじゃないのかなあ、と。

 追記。暴力ゲームが暴力的な人間を作るという研究結果だとか騒がれています。どー考えてもおかしいとおもうのですよね。ゲームってやらされるものじゃなくて、趣味で、好きでやるのものなんですよ。シューティングが好きな人はシューティングゲームをやりますが、嫌いな人や、興味が無い人はやりません。暴力ゲームもしかりで、暴力が好きじゃないとやらないんですよね。
 なので、暴力ゲームをやったから暴力的になるのではなく、暴力が好きな人だから、暴力ゲームをやっているということで、研究した人は一度ゲームという文化を知るべきたと思います。

やっぱり子供には悪影響? 暴力的なゲームは暴力的な態度につながるとの研究結果
http://www.kotaku.jp/2012/10/violent_games_make_teenagers_aggressive.html
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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

大津中学いじめ自殺事件。 2012年07月27日 考えてみて トラックバック:0コメント:3

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大津中学でいじめによる自殺があったそうですね。今回も例によって例のごとく、いじめについて、みなさんで考えていたり、どうしたら無くせるかとか言い争っているようですが。
いじめは絶対に無くならないと思います。いじめはゴキブリのようにしぶといやつです。生き物にはいじめはつき物なんですね。
いじめには、顔が変だとか、なんらかのコンプレックスとかを持つ人がいじめられる傾向があるので、それだけの人間がいじめられていると考える人は多そうです。ですが、いじめられる人は弱いというだけでいじめられます。他の人間と違うだけではなく、弱いという理由でいじめられるんですよ。なので、集団で人間が行動した場合、一番弱い人間は必ずいるので、その人がいじめられます。集団で行動するのは前提事項なので、どうしようもありませんね。もちろん、例外として集団の全員が精神年齢が高く、善悪の判断が鋭い人間で構成されれば起こりません。が、そんな中学は多分無いです。
では、なぜ弱い人がいじめられるのか。答えは簡単。生き物の生まれつき持つ、もしくは神様が考案した、強い者のみが生き残る、弱肉強食の現実世界だからですね。

だから絶対に世界からいじめはなくなりません。いじめは不滅です。今も「どこか」で起こっているでしょう。

絶望せずに、じゃあどうすればいいのか?と考えましょう。
ここで確認しておきたいのですが、クラスの質は教師の質が80~90%を占めると僕は考えます。
たとえば授業中にうるさいクラスは、騒ぐ生徒も悪いのですが、それ以上に、しっかりと統率がとれていない教師が悪いんです。
軍隊と統率をとる将軍を思い浮かべましょう。将軍が、的確な指示を出すことにより、軍隊は綺麗に動けます。それ以前に軍隊に訓練が必要ですが、教室で授業を受けるためには訓練はいりません。前を向いて座るだけですからね?
教師によって本当に授業のもっていき方は違います。うまい教師は教師自身の人望を集めることから始めたりするんですよね。その上で、興味を引くような授業の進行をすることで、生徒の集中を授業へうまくもっていったりします。もちろんうるさくなんてならないので、生徒を注意する手間も省けています。下手な教師は抑揚の無い授業で生徒の集中力を欠かせたり、それによって騒いだ生徒を怒鳴ったりします。悪くなる一方ですね。
そんなわけで、うるさいクラスはクラスメイトのせいではありません。90%教師のせいです。もちろん、加えて精神年齢のことも絡んできます。そこが10%強を占めていますね。

ということで、話を戻しますが、いじめを消すことはできません。なので、最悪の事態を防ぐことを考えましょう。
最悪のケース、自殺を防ぐためには、教師が生徒を見る必要があります。
しかし、教師だけに任せるのは荷が重いんですよね。そこで、学校側がどういう風に指導すれば良いかを考えます。
まず、善悪の判断の教育や、道徳の教育に力を注ぐべきですね。100か0かの人間はいません。それによって精神年齢を上げ、ある程度減少させましょう。でも初めに述べたのとおり、いじめは消えません。
教師の質を上げても良いとは思いますが、それは当たり前の話。
教室の状況を毎時間伝えてくれる生徒がいれば良いのですが、そういう生徒はあまりいません。いじめなら、なお言いにくいでしょう。
現実的ではないでしょうが、教職員のほかに、教室を監視する監視人を送り込むのが得策です。この監視人がどれだけ有能かが、問題になりそうですが、的確に監視人が生徒の状況を報告してくれれば、それで学校側が動けます。監視カメラでも構わないでしょう。なので監視人はしっかりと生徒の様子を見て、報告をすれば十分なんです。この子は一人でいるだとか、そういう事だけでも動けるでしょう。
監視などという言葉を使いましたが、結局学校は閉鎖的で、ストレスが溜まりやすい上に、いじめも容易にできてしまう、ひどい空間です。学校の設計とかも、開放的にするなどの処置をとっても良いんじゃないですかね。

最後に、まとめると、生徒の様子が見れる環境と、それに対して行動が起こせる学校が必要。早めに行動すれば、教育現場が責任や過失を認めることもなくなります。
こんな提案をするのは初めてなんですが、結局のところ僕が言いたいのは、いじめはなくならない、なので最悪のケースだけは避けるように、教師が見張りをきかせてくれ。ということです。

今回の事件は、殺人事件です。自殺という形でも、そこまで誰かが"故意"に追い込むということは、銃で殺すことと同じでしょう。

テーマ:いじめ - ジャンル:ニュース

オタク文化と宗教文化 2012年01月02日 考えてみて トラックバック:0コメント:1

人間、いろんな人が居ますね?で、僕はどうやら適当に自慢できない程度に考えたところ、染まりやすい人間だということに気が付いたんですよ。何かを好きになったらそれに入り込む。しかし、好きになったものに入り込むだけなので努力はしない。それだけの人間。現実が嫌いな人間。幻想も現実というのは僕の持論なのでしょう。それって、果たして良いことなのでしょうか。と、今考えているところです。
というのも、私は高校二年生。理系文系で分かれる時。僕は今までどおり、直前にならないとその現実へ思考が行かない。いや、思考は行っても行動はしない、つまりは哲学人間です。
頭の中だけでああだこうだと考えます。実行には移せない、移したとしても努力はできない。
さあ、これは良いのでしょうか。これを読んでる方々にも決して若者の戯言だと思わないで考えてください。意見を言うのは誰にでもできるので、お前には権利が無いとは言わせません。
ちょっと自分のことを辛口で評価してるのかもしれない、と今ふと思いました。
結局自分の人生なんだから、自分の好きなように生きればいい。他人に流されて宗教生活しても良い。自分が中心となって生活をしても良い。

さて、ここで出た宗教生活についてがこの記事の本番なわけです。
アニメや、ゲームをやったりして、それだけで過ごす人。映画を見て入り込む、音楽を聴いて興奮する、ファンになる人。あるアニメキャラクターに惚れ込んでその子を愛する人。
もう例を挙げるのが面倒なので、ここまでにしますが、これらの人はいわゆる「オタク」なわけです。
入り込む。それに浸る。すばらしいことです。ですが一般的にはあまり良い目で見られることは無い。最近は変わってきていますが、その傾向はなんとなく続いてますよね。
さて、ここで視点を変えて宗教について。
簡単なところから行きますと、キリスト教なんかは「イエスキリスト」を救世主として崇めていますね。
「イエスキリストが何とかしてくれる。イエスキリストが居るから私たちはこうして生活できているのだ」
どういう風に崇めているのか詳しいことは分かりませんが、宗教は大体恐怖から逃れるために大きなものを引き合いに出して気持ちを落ち着かせる。「虎穴に入るけど、この十字架さえあれば絶対に俺は死なない。」みたいな暗示とかにも使えます。
まるでイエスキリストがすぐそこに存在しているかのような考え方ですよね。
じゃあ、ここで「オタク」について考えてみてください。彼らの考え方を文章に変えますと、
「長門かわいすぎる。ああ、助けになってやりたいぜ!!うおおおぺろぺろぺろ!!」
みたいな感じですね。分かりにくいので綺麗な文章にすると。
「長門さんが好きなんですよ。僕のお嫁さんにしたい。彼女の無表情な顔を見ると明日から頑張れるんです。彼女が居れば、怖いものなんてないですよ。僕の生活は彼女のことを考える日々です」
といった具合。
人を好きになる文章ですね。ちなみに例文に登場した長門さんはアニメキャラクターです。僕の(ry

 さて、宗教とオタク文化。具体的に出すとイエスキリストと長門有希。結構共通点は多いと思うのですよ。大きく分けますね。
まず一つ、重要なところは「信じている」点。次に「存在することで、気持ちの置き場にしているところ」最後に「生活の中心である」こと。これら三つは全て心の話になるわけです。現実的に見て力が無いのが基本なんですね。

「信じている」点はそのままの意味。イエスキリストや長門有希は物理的には存在していませんが、信じている人たちの心の中には存在しているのです。

二つ目の「存在することで、気持ちの置き場にしているところ」は「イエスキリストがいる。だから私たちは生きていける」という部分と「長門有希が好き。癒される、私たちは彼女のおかげで頑張れます!」という部分が重なっていますね。
全然違うようで結構同じなんです。ようは気持ちの置き場。
気持ちが安定する場所、考えが及ぶ場所を支配しているという意味です。
しかし、この二つ目。宗教の方はイエスキリストに僕らが見られている。オタクのほうは僕らが長門を見ている。という大幅な違いがありますね。ですが、表面的には同じ。現代になって人々の行動が変わってきていることが伺えます。真実を知っているわけですから。その部分に関しては後々まとめます。

三つ目の「生活の中心である」部分はキリスト教では日曜日に教会へ行ってお祈りしたり、十字架や、像、イエスキリストの描かれた絵、イコンを買ったりします。オタクはその女の子が出ているアニメを見たり、その女の子のグッツを買ったり、眺めたり。高度なところだとイラストを描いたりしますね。
さて、かなり共通してますよね?お祈りの部分はアニメを見る部分と共通します。十字架や像、キリストの絵(イコン)を買うのはオタクで言うところの女の子のグッツ、つまりフィギュア、イラスト、同人誌を買うところに位置づけられます。
ものすごく共通してます。

ここで分かるわけです。オタクと宗教は同じだった。と。
信じること、そこに入り込むこと。まあ、単純に考えれば入り込んでいる、それだけなので、どちらもやはり同じなのです。ただ、入り込みすぎて生活の中心になっているというとこの二つなわけです。
しかし、宗教とオタクが違うところがほんの少し。
宗教は政治とかに大きくかかわったりしますし、やはり、考え方そのものがよく出来た哲学になっておりそれを信じるわけですから、考え方を信じることになり、酷いところだとありもしない力を信じたりします。
オタクは考え方の部分は自由なので集団性はないです。皆自由に考察したりします。
宗教は集団、団体でなおかつ意見が同じ人たちの集まり。オタクには集団になれたとしても、意見の一致はありません。ここで力があるか、無いかの違いが出てきますね。
表面的には全く同じなんです。
昔は何も無かったので勝手にああだろうこうだろうと頭の中で世界について考えたので宗教は「神様はいるんだ、人間はこうするべきだ」みたいなことになりますが、現代は科学やら、そういう現実を調べ上げてだいたい真実が明らかになっているのでその表面の形をそのまま受け継いで「長門かわいい」って感じになったんでしょうね。もちろん真実は一つなので、その「長門かわいい」の部分は精神を受け継ぎ、現実については科学やら、そういう調べ上げのほうに受け継いだ。一見馬鹿っぽくても現代の方が昔より進んでいるのです。
ここで先ほどの話に戻りますが宗教は僕たちが神様に見られる側で、オタクは長門さんを僕たちが見る側になっているのはなぜか。答えは簡単。現代の人たちは現実で起こってることを科学やら物理を知っているので大体のことが見当付いてます。なので単純に疲労に対する癒しが必要になった。だから、かわいいものを見たりして辛い現実から一時的に解放されたりしてるんです。
ですが昔の人たちは現実で起こってることがまだ分かってないです。現実が何がなんだか分からず、怖かったのです。人間は分からないものを怖がります。なので物事の見当をつける大きなものが必要だったのです。恐怖に対する安心感が必要だったのですよ。疲労の癒しと恐怖の判別。頭の中で考えることが多かった。だからその大きなものとして神様を作って自分たち人間を見守らせた。
日本において宗教色が無いのは実は誇れることだったのです。ちゃんと判別が付くんですね。アメリカやイギリスは結構幼稚なんですよ。
よく考えるとオタクのほうが宗教より凄かったりするんです。
まあ、宗教にもいろいろあるんでそこら辺はなんともいえないんですがね。

では。

テーマ:雑記 - ジャンル:サブカル

 
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