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PAPER 2012年01月31日 作品 トラックバック:0コメント:0

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紙?

消しゴムがなんとなく色が付いてるのは偶然だったりします。
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オタク文化と宗教文化 2012年01月02日 考えてみて トラックバック:0コメント:1

人間、いろんな人が居ますね?で、僕はどうやら適当に自慢できない程度に考えたところ、染まりやすい人間だということに気が付いたんですよ。何かを好きになったらそれに入り込む。しかし、好きになったものに入り込むだけなので努力はしない。それだけの人間。現実が嫌いな人間。幻想も現実というのは僕の持論なのでしょう。それって、果たして良いことなのでしょうか。と、今考えているところです。
というのも、私は高校二年生。理系文系で分かれる時。僕は今までどおり、直前にならないとその現実へ思考が行かない。いや、思考は行っても行動はしない、つまりは哲学人間です。
頭の中だけでああだこうだと考えます。実行には移せない、移したとしても努力はできない。
さあ、これは良いのでしょうか。これを読んでる方々にも決して若者の戯言だと思わないで考えてください。意見を言うのは誰にでもできるので、お前には権利が無いとは言わせません。
ちょっと自分のことを辛口で評価してるのかもしれない、と今ふと思いました。
結局自分の人生なんだから、自分の好きなように生きればいい。他人に流されて宗教生活しても良い。自分が中心となって生活をしても良い。

さて、ここで出た宗教生活についてがこの記事の本番なわけです。
アニメや、ゲームをやったりして、それだけで過ごす人。映画を見て入り込む、音楽を聴いて興奮する、ファンになる人。あるアニメキャラクターに惚れ込んでその子を愛する人。
もう例を挙げるのが面倒なので、ここまでにしますが、これらの人はいわゆる「オタク」なわけです。
入り込む。それに浸る。すばらしいことです。ですが一般的にはあまり良い目で見られることは無い。最近は変わってきていますが、その傾向はなんとなく続いてますよね。
さて、ここで視点を変えて宗教について。
簡単なところから行きますと、キリスト教なんかは「イエスキリスト」を救世主として崇めていますね。
「イエスキリストが何とかしてくれる。イエスキリストが居るから私たちはこうして生活できているのだ」
どういう風に崇めているのか詳しいことは分かりませんが、宗教は大体恐怖から逃れるために大きなものを引き合いに出して気持ちを落ち着かせる。「虎穴に入るけど、この十字架さえあれば絶対に俺は死なない。」みたいな暗示とかにも使えます。
まるでイエスキリストがすぐそこに存在しているかのような考え方ですよね。
じゃあ、ここで「オタク」について考えてみてください。彼らの考え方を文章に変えますと、
「長門かわいすぎる。ああ、助けになってやりたいぜ!!うおおおぺろぺろぺろ!!」
みたいな感じですね。分かりにくいので綺麗な文章にすると。
「長門さんが好きなんですよ。僕のお嫁さんにしたい。彼女の無表情な顔を見ると明日から頑張れるんです。彼女が居れば、怖いものなんてないですよ。僕の生活は彼女のことを考える日々です」
といった具合。
人を好きになる文章ですね。ちなみに例文に登場した長門さんはアニメキャラクターです。僕の(ry

 さて、宗教とオタク文化。具体的に出すとイエスキリストと長門有希。結構共通点は多いと思うのですよ。大きく分けますね。
まず一つ、重要なところは「信じている」点。次に「存在することで、気持ちの置き場にしているところ」最後に「生活の中心である」こと。これら三つは全て心の話になるわけです。現実的に見て力が無いのが基本なんですね。

「信じている」点はそのままの意味。イエスキリストや長門有希は物理的には存在していませんが、信じている人たちの心の中には存在しているのです。

二つ目の「存在することで、気持ちの置き場にしているところ」は「イエスキリストがいる。だから私たちは生きていける」という部分と「長門有希が好き。癒される、私たちは彼女のおかげで頑張れます!」という部分が重なっていますね。
全然違うようで結構同じなんです。ようは気持ちの置き場。
気持ちが安定する場所、考えが及ぶ場所を支配しているという意味です。
しかし、この二つ目。宗教の方はイエスキリストに僕らが見られている。オタクのほうは僕らが長門を見ている。という大幅な違いがありますね。ですが、表面的には同じ。現代になって人々の行動が変わってきていることが伺えます。真実を知っているわけですから。その部分に関しては後々まとめます。

三つ目の「生活の中心である」部分はキリスト教では日曜日に教会へ行ってお祈りしたり、十字架や、像、イエスキリストの描かれた絵、イコンを買ったりします。オタクはその女の子が出ているアニメを見たり、その女の子のグッツを買ったり、眺めたり。高度なところだとイラストを描いたりしますね。
さて、かなり共通してますよね?お祈りの部分はアニメを見る部分と共通します。十字架や像、キリストの絵(イコン)を買うのはオタクで言うところの女の子のグッツ、つまりフィギュア、イラスト、同人誌を買うところに位置づけられます。
ものすごく共通してます。

ここで分かるわけです。オタクと宗教は同じだった。と。
信じること、そこに入り込むこと。まあ、単純に考えれば入り込んでいる、それだけなので、どちらもやはり同じなのです。ただ、入り込みすぎて生活の中心になっているというとこの二つなわけです。
しかし、宗教とオタクが違うところがほんの少し。
宗教は政治とかに大きくかかわったりしますし、やはり、考え方そのものがよく出来た哲学になっておりそれを信じるわけですから、考え方を信じることになり、酷いところだとありもしない力を信じたりします。
オタクは考え方の部分は自由なので集団性はないです。皆自由に考察したりします。
宗教は集団、団体でなおかつ意見が同じ人たちの集まり。オタクには集団になれたとしても、意見の一致はありません。ここで力があるか、無いかの違いが出てきますね。
表面的には全く同じなんです。
昔は何も無かったので勝手にああだろうこうだろうと頭の中で世界について考えたので宗教は「神様はいるんだ、人間はこうするべきだ」みたいなことになりますが、現代は科学やら、そういう現実を調べ上げてだいたい真実が明らかになっているのでその表面の形をそのまま受け継いで「長門かわいい」って感じになったんでしょうね。もちろん真実は一つなので、その「長門かわいい」の部分は精神を受け継ぎ、現実については科学やら、そういう調べ上げのほうに受け継いだ。一見馬鹿っぽくても現代の方が昔より進んでいるのです。
ここで先ほどの話に戻りますが宗教は僕たちが神様に見られる側で、オタクは長門さんを僕たちが見る側になっているのはなぜか。答えは簡単。現代の人たちは現実で起こってることを科学やら物理を知っているので大体のことが見当付いてます。なので単純に疲労に対する癒しが必要になった。だから、かわいいものを見たりして辛い現実から一時的に解放されたりしてるんです。
ですが昔の人たちは現実で起こってることがまだ分かってないです。現実が何がなんだか分からず、怖かったのです。人間は分からないものを怖がります。なので物事の見当をつける大きなものが必要だったのです。恐怖に対する安心感が必要だったのですよ。疲労の癒しと恐怖の判別。頭の中で考えることが多かった。だからその大きなものとして神様を作って自分たち人間を見守らせた。
日本において宗教色が無いのは実は誇れることだったのです。ちゃんと判別が付くんですね。アメリカやイギリスは結構幼稚なんですよ。
よく考えるとオタクのほうが宗教より凄かったりするんです。
まあ、宗教にもいろいろあるんでそこら辺はなんともいえないんですがね。

では。

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